小さなころから “あまのじゃく”
中学高校生活で一番がんばったのは「スト II」
ー 先ほどご自身のことを「あまのじゃく」とおっしゃっていましたが、どんなお子さんだったんですか?
覚えているのは4歳くらいの頃からのことで、保育園のみんなで散歩に行くとき、列には絶対に並びたくなかったし、みんなとは違うところに行きたいと思っていました。だから、いつも先生が3人くらい僕に張り付いていましたね。
ー 保育園が嫌い、ということではないんですよね?
そうですね。友だちと遊ぶのは好きでした。
ー 生き物とか虫にはそのころから興味はありましたか?
小学1年生くらいのときから昆虫が好きで、クラスにひとりくらいいる昆虫博士が僕でしたね。虫を殺すのが嫌だったので標本はつくりませんでしたが、野外で見たり、飼育するのは好きでした。
ー 勉強はできたんですか?
普通ですね。東京の小学校で、クラスの半数くらいが中学受験に備えて4年生の終わりから塾へ通わされていました。僕もそのひとりでしたが、それがとても嫌でした。子どもって一人ひとりまったく違うので、押し付けてやらせようと思ったときに、親御さんはちゃんと子どもの反応を見てほしいですね。お子さんがすごくつまらなそうにしていたり、生活の態度が変わったりしたら、無理強いしない方がいいかと思います。
僕はあまのじゃくなので、親に何かやれと言われたら絶対にやりたくない。押し付けられることはストレスでしかないんです。そういう子もたまにいるんですよ。僕はクラスメイトのみんなが、なぜ何の疑問も持たずに親の言うことを聞けるのかが本当に不思議でした。勉強することが正義で、偏差値が一番尊いもので、成績でクラス分けがされそれをみんな素直に受け入れているのが信じられなかったですね。疑問を持たずに受け入れる方が普通で、自分は少し例外なのかなというのは、ある程度成長して気が付きましたけど。
最初に通った塾は生徒数が多く勉強しなかったので、少人数でスパルタの塾に行かされました。そこは今では考えられない、1点でも足りないと夜中の1時くらいまで残されたり、暴力も普通にあって強制的に勉強させられていました。それで私立の中高一貫、それほどいいところではありませんが入学し、でも入ってからも全然勉強しませんでしたね。学校に行くふりをして公園でパンを食べたり、ゲームセンターに行ったり。中学高校生活で一番がんばったのはゲームの「ストリートファイター II」です。勉強はまったくせず、高校3年生のときは、最後のテストで学年でビリでした。
自分の原点を探り、やりたいことを見つける
ー そんな先生が何がきっかけで勉強しようと思ったんですか?
高校3年生くらいになると、なんとなくですが進路は気になって、当時は「スタジオジブリ」のアニメも好きだったので、代々木アニメーション学院に行こうかなとも思ったんですが、アニメ以外の可能性というか、自分には何があるのかと昔のことを思い出したときに、そういえば生き物が好きだったなと思い出して。理科は勉強しなくてもそこそこできたので、やっぱり向いているのかなと。そこで、受かるかどうかわからないけど、理学部の生物学科みたいなところを、学校はどこでもいいから目指そうと思いました。でも2浪して、これでダメだったら専門学校にしようと思っていたら、神奈川大学の理学部 生物科学科に合格したんです。
ー 将来どうしようと思ったときに原点を探る方はけっこういらっしゃいますね。それが先生の場合、生物だったんですね。生物をやろうと神奈川大学に入ったときに研究対象はあったんですか?
漠然と「生態学」というのは考えていたんですが、生態学の先生がそれほど魅力的に見えなくて。僕は小さいころから常識をぶっ壊すような人が好きなんです。するとひとりだけ飛び抜けておもしろい先生を見つけて、関邦博教授という方なのですが、それで関先生の研究室に入ったんです。関先生はクマムシを研究していて、僕はそこでクマムシと出会ったんです。
ー 人と違うお子さんでしたが、親御さんはどのように先生に接していたんですか?
父親は戦前、母親は戦中世代、この世代は子どもは親に従うのはあたり前と思っていますが、同世代と比べても、特にその傾向は強かったですね。職業も両親とも弁護士だったので、子どもも弁護士にしようとするんですよ。まわりも弁護士の子どもは弁護士になっていましたし。だからそうしなきゃいけないという空気もあって、いい中学、いい高校、いい大学、そして弁護士と、そういうレールがありました。こちらが意見を言っても全然聞いてくれない、古いタイプの親ですね。でもこっちは変わった子どもで、親がやれと言ったことは絶対にやらなかったので、まったく相容れなかったですね。
ー それでは先生が大学に入ったときは喜んだんじゃないですか?
かもしれませんが、もうあまり話をしなくなってました。
ー 親との関係よりも、先生にとっては自分の道を進んだ方が生きやすかったんですね。
そういう子どももいるんですよね。だから親御さんはお子さんの様子を見て、場合によっては放任してほしい。もちろん何か言ったり定めてくれないと不安なお子さんもいるので、そこは見極めが難しいですが。
クマムシとの出会い
吐血しながらの研究を支えたものとは?
ー 大学に入ってクマムシに出会って、それからはもうクマムシしかない、という気持ちでしたか?
年齢的にもここでクマムシを諦めたら、自分には何も残らないという思いもあって、大学院の間はこれをやらないと、と思っていました。
ー 今みたいなクマムシの可能性は見えていたんですか?
今ほどではありませんが、見えてましたね。可能性はすごくあると思っていましたが、それよりも自分が研究者になれるかが心配でした。でも誰もやっていない研究だったので、これで結果が出れば世界で一番になれるかなと。
関先生がクマムシの研究をしていたのは知っていたので、もう世界中で研究されていると思っていたんですよ。でも調べてみたらほとんど研究されていなかった。それもクマムシの研究をはじめた大きな理由です。あまのじゃくなので、みんながやっていることはやりたくないんです。
ー 本を読むと、オニクマムシは飼育が大変で、それこそ吐血しながら飼育しています。そこまでして続けてこられたモチベーションは?
環境もよかったのかなと思います。当時はつくば市にある農業生物資源研究所という、学生がほとんどいないところで、クマムシは僕ひとりが研究していました。つくばも今のように電車も通ってなくて、隔離された、陸の孤島のような場所でした。まわりもプロの研究者ばかりで、一緒に実験室にいた人は今はバッタ博士として有名になった、前野ウルド浩太郎さんですが、そういうところにいると、みんな研究に没頭していて、自然と研究に向き合えましたね。他にやることもなかったですし。あとはやっぱり、これを諦めたら自分には何も残らないという思いですね。
ー 途中で辞めたいと思ったことはないんですか?
それはありましたよ。オニクマムシの飼育が大変で研究には適さないというのがうっすらわかって、次の飼育用のクマムシを探さなきゃならないというときには、3年間で博士課程はとれない、4年以上はかかるだろうし、最大の6年でも無理かもしれない。そしてそこまでやってもダメだったら、それ以上は続けられないなと。そこは不安でしたね。
運よく「ヨコヅナクマムシ」を見つけ飼育に成功したあとも、博士号はとったものの1年間行き先が決まらなかったときは、これはもう向いてないから早めに方向転換した方がいいかな、と思ったこともあります。辞めてどうするかはわからないんだけど、続けていても、株にたとえると値が下がり続けているから、早めに損切りするというような。
ー それでも研究を続けていられたのは、ヨコヅナクマムシが見つかったのが大きかったですか?
間違いないですね。ヨコヅナクマムシが見つかっていなかったら辞めていたと思います。
本当に運がよかった。たまたまピンポイントでエサのクロレラが見つかり、しかも「生クロレラV12」しか食べませんでしたし、「生クロレラV12」は日本にしかないものでした。また鮮度の問題で海外には輸送ができないので、他の国ではヨコヅナクマムシの研究はできないんです。おかげで日本のクマムシ研究は海外に比べてだいぶ進んでいるんですが、できれば海外にもヨコヅナクマムシを広めたいですね。
研究職を目指す子どもたちへ
ー 諦めずにいたことが運も呼び寄せたんですね。クマムシに限らず、先生のような研究職を目指す子どもたちアドバイスをいただけますか。
やっぱり好きなことをずっと続けるということですよね。それがすべてかなと思います。
あとは背伸びをしてもいいと思っています。学校で教えてもらうことだけで満足しないで、自分からいろいろなところに出かけて行ったり、インターネットで調べたり、重要な情報は英語が多いので、英語も勉強しておくといいですね。
ー 親が協力できることは? 先生の親御さんはそういうタイプとは違ったと思いますが。
子どもが興味を持ったら、こんなニュースがあったとか、子どもが興味を持ちそうな情報を教えてあげることだと思います。新聞を切り抜いてあげたり、本もいいですし、関係している施設などに連れていってあげてもいいですよね。子どもが興味を持っていることに積極的に関わる。それがきっかけで研究者になった人は、僕のまわりにもけっこういますよ。親と一緒に望遠鏡で星を見ていたとか。
ー クマムシは当初マイナーな研究だったと思いますが、マイナーなものに向き合うときの心構えは?
これはとても難しいことだと思いますが、好きなことをとにかくやって、まわりから言われることは気にしないことですね。まわりに流されないって難しいですけどね。
ー 先生の今後の夢、目標は?
クマムシの研究所をつくり、みんなで研究して新しい発見ができれば、そういう環境をつくれたら嬉しいですね。
ー 地球の生物の起源は、宇宙から地球に落ちた隕石に生物がついていた、という説もありますが、クマムシのこの驚異的な耐性能力を考えると、その可能性はありませんか? この地球の環境だけでは、あまりにオーバースペックです。
地球由来の生物であることは間違いありません。クマムシは進化の過程で乾燥耐性を身につけ、それが結果として真空や超低温への耐性にも結びついたと考えています。
ー 宇宙も研究対象になるので、クマムシの研究は壮大で、今後もますます楽しみですね。
僕もNASAで研究していたこともありますし。そちらの研究も進んでいます。もっともっと楽しくしていきたいですね。
【プレゼント】クマムシ博士 堀川大樹先生インタビュー記念! 書籍『クマムシ博士の クマムシへんてこ最強伝説』プレゼント!
編集後記
ご自身を “あまのじゃく” と語っていたクマムシ博士こと堀川先生。しかし、誤解を恐れずに言えば、この世は先生のような一握りの “あまのじゃく” や “変わり者” が発展させてきたと思っています。幼い頃は先生ご自身も大変だったでしょうが、そんな子どもを持った親御さんも大変だったことと思います。子育てに多いに悩んだのではないでしょうか。しかし、いま、そのようなお子さんを持った親御さんにとって、今回の堀川先生のお話はとても参考になるんじゃないかと感じました。
「クマムシ」がとても魅力的な生物ということも、改めて教えていただきました。ノミを箱の中に入れると、外に出しても箱の高さ以上にはジャンプしなくなるそうです。それと一緒かはわかりませんが、生物はその環境に耐えられるように進化するとなると、クマムシの驚くような極限環境への耐性能力は、宇宙で磨かれたものだとおもしろいなと、ロマンも込めて勝手に想像しています(地球由来の生物であることは間違いないそうですが)。
クマムシの能力の秘密がわかり、それを安全に取り入れられ、人間がさまざまな環境に素のままでも耐えられるようになるといいですね。その前に、まずは新鮮なエビが自宅で食べられることを楽しみにしています。
ほんの少ですが、『キッズイベント』もクラウドファンディングで先生の研究の支援をさせていただきました。この研究結果のお話も、ぜひ聞かせてください。
クマムシ博士のクマムシへんてこ最強伝説
堀川大樹
1,400円+税
日経ナショナル ジオグラフィック社
宇宙空間に放り出されても死なない不思議な生き物「クマムシ」。そんなクマムシの信じがたい生態から愛すべき弱点まで、研究室で日々観察しているからこそ発見できたクマムシ博士の研究室の成果を、たくさんのイラストとともに紹介。クマムシを愛するすべての人と、クマムシを知りたい全人類に向けた一冊。人気キャラクター「クマムシさん」のイラスト、そしてシールも収録。
堀川大樹(ほりかわ だいき)
1978年、東京都生まれ。地球環境科学博士。慶應義塾大学先端生命科学研究所特任講師。北海道大学大学院地球環境科学研究科にて博士号取得。NASAエイムズ研究センターおよびNASA宇宙生物学研究所にてヨコヅナクマムシを用いた宇宙生物学研究を実施した後、パリ第5大学およびフランス国立衛生医学研究所に所属。著書に『クマムシ博士の「最強生物」学講座 ─私が愛した生きものたち』(新潮社)、『クマムシ研究日誌 ─地上最強生物に恋して』(東海大学出版部)がある。ブログ「むしブロ」、有料メルマガ「むしマガ」を運営。ツイッターアカウントは@horikawad/@kumamushisan。
・クマムシ博士のむしブロ:http://horikawad.hatenadiary.com
記事が役に立ったという方はご支援くださいますと幸いです。上のボタンからOFUSE経由で寄付が可能です。コンテンツ充実のために活用させていただきます。