「こびとづかん」のはじまりは紙粘土から
ー 「こびとづかん」は、どうやって生まれたんですか?
子どもの頃、幽霊が怖くてしょうがなかったんです。お風呂に1人で入ると、何かが見てるんじゃないかとか。小学校3年生くらいまで、母親に頭を洗ってもらっていました。でも、気配やちょっとした不思議とか、ネッシーやUFO、水木しげるさんの妖怪とか、怖がりだけどそういうものには興味があって、物音がするとその怖さを紛らわすために、可愛い何かがそれをやっているんだと、たとえば何かが太鼓を叩いたんだとか、常にそういう想像をしていました。それを形にしたくなったんです。それで紙粘土を買ってきて、いじっていたら、自然と手が動いて、できたのがクサマダラオオコビトでした。コレおもしろいな、と、今度はそれを絵に描き起こしました。こびととの出会いは最初、粘土だったんです。
それから、こびとの図鑑のような冊子を500部つくり、イベントで1,500円で売ってみました。全部売れたら出版社に持って行こうと決めて。そしたら全部売れちゃった。じゃあ、ということで、冊子を出版社に送ったんです。でも、1週間経っても2週間経っても何の連絡もない。思い切って連絡したら「会いましょう」となって、東京で会うことになった。
ー(当時からの編集者 中西さんへ)こびとのどこに惹かれたんですか?
やっぱりおもしろいですよね。いろいろな人にその冊子を見てもらったけど、みんなおもしろいと言っていました。うちの小学生の子どもに見せたら「学校に持って行きたい」と言うので持って行かせたら、「みんなおもしろがって見てた」と。でも、いきなり知らない人から急に自家製の冊子が送られてきても、すぐ本にしようとは、なかなか決められないですよね。どうしようかと、悩んでいた時期もありましたよ。(中西)
ー 最初は絵本じゃなくて図鑑だったんですね。
小さいときから図鑑が大好きで、図鑑ばっかり見ていました。だから、僕の頭の中での本のイメージは『こびと大百科』的なものだったんです。中西さんから「絵本にしよう」と言われたときは、「絵本かぁ…」とびっくりしました。じゃあなんか物語も考えないといけないなと、そこから話を考え始めました。とにかく本にしてもらいたくて、あんまりいろいろなことは考えていませんでした。本にして、まわりをギャフンと言わせたかった。同級生たちは就職し、結婚をして、子どもができて、家を建てたり。そんな中で、僕だけが籠って絵を描いていた。負のモチベーションもありましたね。田舎だからまわりの目もあるし。
本にすることが決まってからも1年半〜2年くらいかかって、ずっと「騙されてる」って言われていました。「絵本を出す」「100万部いくから」と言ってから1年以上も何もないので、ほら吹き呼ばわりでした。逆にお金をとられるんじゃないかと、親も心配していましたね。そういうビジネスもありますから。
ー ご両親はなばたさんをどう応援していましたか?
何も言わなかったんですよね。出てけとか、仕事しろとか。ずっと家にいて、親からお金もらって飲み会とかも行って。両親は、まわりからいっぱい言われていたと思いますけど、何も言わなかった。なかなかできないですよ。とても有り難かったですね。実は家族全員が無職だった時期もあって、父親は退職し、兄貴もたまたま仕事を辞めて、僕はずっと仕事をしてなくて、男3人が家で昼寝してて、この家大丈夫かな? と、母親はけっこうやきもきしてたでしょうね。だから、絶対なんとかしなきゃいけないと、かなり追い込まれていました。
ー そんな先が見えないときは、どうやって乗り越えたんですか?
イメージははっきりしていたんです。とにかくこびとの本を出すことが目標で、そこにしか焦点を当てていませんでした。こびとを世の中のみんなに知ってもらいたいという想いしかなかったんです。こびとが受け入れられるかどうかまでは考えもしなかったけど、出ればどうにかなると思っていました。「これおもしろいでしょ?」という感覚です。僕が子どもの頃に読んでいたら夢中になる、そんな本をつくりたかったんです。
「絵本を出した最初の頃、「こびとづかん」は、本屋さんに児童書として認めてもらえませんでした。みんな「おもしろいね」と喜ぶけど、子どもが見たら泣いちゃうから、児童書のところには置けないと。それで、仕方なく美術書のコーナーとか、サブカルの棚で展開してもらっていました。そこで最初は20代くらいの女性に人気が出たんです。だから最初の頃は、サイン会をやっても子どもはあんまりいなかった(中西さん)」
こびとの海外展開、ライフワークとしてのこびと
そしてこびと以外の挑戦も
ー 絵本やイラストで広く受け入れられるのは難しいと思います。なばたさんは、どうして受け入れられたと思いますか?
そうですねぇ…。運が良かったとしか言いようがないですね。仕事もせずに絵を描いていられる環境だったり、奇跡的な人との出会いだったり。あとは、もちろん自分のイメージは大切にしますが、けっこう柔軟に人の意見も取り入れたり、おもしろそうな意見には乗っかったりもしています。でも、それが正解とは限らないのですし、難しいですね。それがわかれば、苦労しないですみますよね。
ー 編集者として、中西さんはどう思いますか?
絵が、変に媚びてなかったですよね。受けようとか、そういうものを感じなかった。好きで描いてるんだと思いました。いろいろな人が絵本を持ち込んできましたが、ほとんどがどこかで見たようなタッチだったり、絵本というものからはみ出さないように、小さくまとまった感じでした。絵本以外の絵は描いていなかったし。なばたさんは、そうじゃなかったですね。(中西)
「こびとづかん」は対象年齢を定めていないんです。最初に人気が出たのも20代の女性からだったし、いろいろな世代の方がおもしろいと思ってくれたのは大きいですね。こびとって不思議で、つい何かをしたくなるんです。サイン会でも子どもたちが『こびと大百科』の絵を全部自分で描いて見せてくれたりとか、人形をつくったり、クッキーを焼いてくれたりとか。それを親子で楽しんでいて、コミュニケーションツールにもなっている。この前嬉しかったのは、「こびとのおかげで娘と話すようになりました」と言われて。そういう、いろいろな楽しみ方ができるのがよかったのかもしれないですね。
ー こびとは、ご家族にはどう思われていますか?
母親はけっこう理解してくれたけど、最初の頃、父や祖母は「絵の中に、この“こびと”がいなければいいのにね」なんて言っていました。そっちがメインなのに…。もちろん今はこびとが大好きで、祖母はもう93歳になるので、おそらく一番高齢のファンですね。サイン会でもおばあちゃん世代の方が来てくれますよ。下は2歳から上は93歳まで。幅広いファンに支えられています。
ー 今後の夢や目標は?
こびとはライフワークとしてずっと続けていきたいと思っています。こびとの可能性や世界を広げながら、驚きをつくり続けていきたいですね。時期を決めるとプレッシャーになっちゃうけど、3年何もせずに放っとくわけにはいけないですよね。固まりつつある案もあるので、出していきたいですね。
今は海外でどれだけ通用するかも楽しみです。ヨーロッパでの反響もいいですし、台湾でも本の翻訳出版とグッズ、スーパーマーケットでのキャンペーン展開が始まっています。Facebookの申請も海外からが増えているので、どんどん広がるのは嬉しいし、楽しみですね。
僕がこびとを見つけたんじゃなくて、こびとが僕を見つけてくれた。だからその責任として、正しい居場所を見つけてあげたい。そして、こびと以外のものにも、挑戦したいと思っています。今は種を蒔き、水をあげ、頭の中でいろいろと考えています。
インタビュー後記
サイン会では、100名もの方に丁寧に絵を描き写真を撮ると、5時間もかかるときがあるそうです。インタビュー中の正直で飾らない言葉からも、なばたさんの誠実さがうかがえました。
子どものときに絵をほめられたことが、大きなきっかけ。金メダルをとったスポーツ選手や歌手の方にも、小さい頃にほめられたことが、その道へ進むきっかけになった方々がいます。子どもにとって、“ほめられる”ということは、とても大きな意味のあることなんだと感じました。そして根拠のない自信が持てること、想像力も、大きなポイントのようです。
絵が好きな子には「月並みだけど、続けることが大切」とアドバイスをしてくれた、なばたさん。こびとを続ける中でどんなものが生み出されるか、そしてご自身がお子さんを持ったときに、どのような作品が生まれるのか、それもまた楽しみです。
なばたとしたか
1977年3月30日、石川県生まれ。2002年、GEISAI-3 毎日新聞スカウト賞受賞。2003年、毎日新聞『weekly くりくり』に作品を連載。2006年、初の絵本『こびとづかん』を発表。大きな反響を呼んだ。その後『みんなのこびと』『こびと大百科』『こびと観察入門』『こびと大研究』を刊行。子どもから大人まで幅広い層で人気を集め、現在シリーズ累計250万部に及んでいる。その他のこびと作品に、『こびとかるた』『かく・きる・ぬーる こびとドリル』『みんなできーる こびとドリルX』、創作絵本に『いーとんの大冒険』などがある。また、『美人とは何か?』(中村うさぎ著/文芸社刊)で挿絵を担当した。現在、本の制作を中心に、イラスト、映像、マスコットキャラクター製作と幅広く活動している。
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