アニメの原画マンに憧れ、漫画家、アニメーターを目指す!
全国模試の結果に、社会に適応できない1?
ー 石井監督が映像の世界に入ったきっかけのひとつに『がんばれ! ベアーズ』がありますが、どんなところに惹かれたのでしょうか?
小学生の僕にとって、70年代のアメリカの景色がとても豊かに見えたというのがあると思います。衣装も可愛かったですし。でもそれ以上に、キャラクター分けがしっかりしていて、全員が自然にからんでいて、話もおもしろかったし、子どもたちのお芝居も上手で、演じているように見えないというのがポイントでした。あまり当時の日本のドラマはおもしろいと感じなくて、『がんばれ! ベアーズ』以外はアニメを観ていましたね。宮崎駿さんと大塚康生さんのコンビによる『ルパン三世』や『パンダコパンダ』『未来少年コナン』、あとは亡くなってしまったけれど『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『ガンバの大冒険』の出崎統さん(アニメ監督、演出家、脚本家、漫画家)や、金田伊功さん(アニメーター)が原画を描いているアニメが好きでした。原画マンがすごく好きだったんですよね。アニメ自体はそんなにおもしろくなくても、好きな人が描いているアニメは観ていました。番組最後のテロップで、よく原画マンをチェックしていました。だからドラマよりもアニメをやっている人の方が才能のある人が多いなと思って、将来は漫画家かアニメーターになりたいと、絵ばっかり描いていました。
どうすれば漫画家やアニメーターになれるか、まわりにいる大人に聞いてもあやふやな答えばっかりでよくわからなかったから、お菓子を持って直接アニメスタジオに遊びに行って見学させてもらったり、原画や動画を見せてもらったりして、こういう仕事はけっこういいなぁ、なんて思っていましたね。でも、なんとなくみんな経済的に豊かなようには見えなかったので、ちょっと危険かもしれないとも思ったりして。僕は幼稚園で2回、小学校は6回変わっていて、子どもの頃にお金で少し苦労していました。だからそこらへん、ちょっと敏感だったんですよね。
本当に就職するべきかを自問自答
忘れていた原点を思い出し、映像の世界へ
小学6年生のときに受けた塾の全国模試の成績がビリから2番目になり、ヤバいなと思いました。仕事をするということ以前に、これでは社会に適応できないんじゃないかと思った。子どもの頃からお金で苦労してはいけないという想いがあったから、大学に入って会社に就職して、ちゃんとしなきゃいけないと考えていたのに、こんな成績だとどうにもならない。それで、じゃあどうしたらいいかと、中学生になっていろいろな先生に聞いたら、「絵がうまいから美大がいいんじゃないか」と言われて。『がんばれ! ベアーズ』も『カリオストロの城』も放送は終わり、自分の中でアニメに対する興味が少し落ち着いている時だったこともあり、美大を意識してからアートに興味が出て来て、美大に行くという方向に気持ちがシフトしました。現代美術のアーティストか、クルマや時計などのプロダクトデザインをやりたいと思っていました。
美大には補欠で合格したのですが、美大って補欠に順番がまわってこないんです。だから次の年はもう少し入りやすそうな専門をグラフィックデザインに変更して武蔵野美術大学に入りました。そこでデザインの勉強をして、大学3年生のときにアニメの講座と映画監督の小栗康平さん※5 の授業を受けて、やっぱり映像の方がおもしろいなと思った。実はその頃、アーティストになるのは難しいなと感じはじめていたんです。今でいう村上隆さんみたいにはなれないなと。それで本当に就職すべきかを一週間くらい引きこもって考えたときに、“そもそも俺ってなんでこの道に入ったのか”、ずっと忘れていた気持ちに気が付いたんですよね。『がんばれ! ベアーズ』を観て感動したのが最初だったんじゃないかと。それで“映像だ”と、原点を思い出して、映像の世界に行くことを決めました。でも最初から映画は大変なので、大学の先輩にCMディレクターの中島信也さん※6 がいたことや、キレイな映像を撮るならCMだと思って、CMディレクターを目指して東北新社に入りました。将来的に、CMのスタッフと一緒に映画を撮れるかな、ということも考えていました。
※5 小栗康平
1981年に『泥の河』で映画監督デビュー。フランスのジョルジュ・サドゥール賞を日本人として初受賞、海外での評価が圧倒的に高い映画監督。
※6 中島信也
日清食品カップヌードル「hungry ? シリーズ」のCMで、日本人として初のカンヌ国際広告祭グランプリを受賞。
映画監督になるために、子どもたちが今できること
ーCMディレクターとして活躍し、1995年には短編映画『8月の約束』を発表、それから1999年に『鮫肌男と桃尻女』で劇場映画監督デビュー、2000年に『PARTY 7』、2004年には『茶の味』がカンヌ映画祭の監督週間オープニング作品に選ばれ世界的な評価も得ていますが、悩んだり、撮れなくなってしまったようなことはありましたか?
2010年に7年かけて製作した長編アニメ『REDLINE』が公開したあと、やりつくしちゃったというか、燃え尽き症候群みたいになっちゃって。ギリギリなんとか仕事だけはやっていたんだけど、6ヵ月後には『スマグラー』の撮影が決まっていて、この調子では映画の撮影はできないと思っていました。出演者の方もスケジュールもここしかないし、カウンセリングみたいなのでなんとか抜け出せましたが、あのときは本当にヤバかったですね。
ー 『ハロー!純一』から、子どもたちは何を受け取ってもらいたいですか?
森下能幸さんと我修院達也さんの言葉を、ちゃんと聞いてもらいたいですね。意外といいこと言ってるんですよ。そして男の子はアチキタ先生(森下能幸さん)みたいな大人に、女の子はアンナ先生(満島ひかりさん)みたいな大人になってほしいかな。アンナ先生のモデルは、芳岡君の小学校時代の実話なんですよ。
ー 映画監督になりたいという子どもたちは、今からどんなことをするといいと思いますか?
今はビデオカメラも安いし、携帯でも動画が撮影できる。編集機材もそんなに高くないから、友だちを集めて撮り始めればいいんじゃないかな。僕も8mmとかで撮ってたし、編集はできなかったけど。で、撮影したものはYouTubeで流せばいい。これからはそういう子どもたちが増えると思います。すごい才能の子どもたちが出てくるんじゃないかな。
プロデューサーっていっぱいいますから、YouTubeで流した作品がいいと思われたら、ある程度の年齢の人だったら最初はたぶんタダ働きみたいなものをさせられると思うので、ちゃんと仕事をして、貯金しておいて、“タダ働きでもいいものをつくるぞっ”て気持ちでやっていけば、夢に近づくんじゃないかなと思います。
ー 今後も『ハロー!純一』のような、子ども向けの映画はつくりますか?
やりたいですね。でも『ハロー!純一』の場合、スタッフはみんな手弁当で、お金に関しては持ち出しているんですね。CDやDVDを出すので、それが売れてくれれば、みんなにもお金を返せて、またやろうと言ったときに「よしっ!」ってなるけど、返せないと、やっぱり「えぇ…」ってなっちゃうかなぁ。蓋を開けてみないとわからないけど、うまく行けば“またやろう!”となるし、そうじゃなければ、しばらくはできないから、『ハロー!純一』をたくさんの人に観てもらって、CDやDVDが売れると嬉しいですね。
インタビュー後記
まわりの大人はあてにならないと、石井少年がアニメスタジオに見学に行っていたというエピソードは思い立ったら行動に移す、わからないことは知っている人に聞こうという、『ハロー!純一』の制作から公開に至るまでの石井監督の行動とよく似ていると思いました。しかもちゃんと菓子折りを持って行っているところに、少年時代の苦労と、『がんばれ! ベアーズ』を観るときの大人びた視線も感じました。
そして子どもの頃から、いろいろなことを考えながら目指す方向を見つけ、好きなことに突き進むその姿から、石井監督は、ずっと“石井少年”なのかもしれないと感じました。だから誰よりも先に、友だちを楽しませるように、子どものことを考えた作品をつくり、公開することができたのかもしれません。そしてそんな純粋で熱い石井監督だからこそ、多くの人が協力を惜しまないのだろう。石井監督の次回作が楽しみです。次回はもっと早い段階から、「キッズイベント」も協力させてください!
石井克人(いしい かつひと)
映画監督、アニメーション監督、CMディレクター。1966年、新潟県生まれ。武蔵野美術大学卒業後、1991年に東北新社に入社、翌年CMディレクターとしてデビュー。1995年、短編『8月の約束』で映画監督としてデビュー後、『鮫肌男と桃尻女』(1999年)、『PARTY7』(2000年)、『茶の味』(2004年)、『山のあなた』(2008年)、『スマグラー おまえの未来を運べ』(2011年)などの話題作を次々と発表。また2003年には、クエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビル』でアニメパートのキャラクターデザインを担当したほか、長編アニメーション映画『REDLINE』(2010年)では企画・原作・キャラクターデザイン、音響監督を兼任。最新作は2014年2月15日(土)公開、小学生以下無料の自主制作映画『ハロー!純一』。
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