子どもたちが忍者から学ぶ“生きる力”に“コミュニケーション能力”
今にも通じる、忍者が使っていた人心掌握術
ー 今回の企画展にはたくさんの子どもが見に来ると思います。子どもたちが忍者を知ることで、これからの生活に役立つこと、役立てられることはありますか?
忍者というのは “生きる”という力を非常に高く持っていた人たちだと思うんですよね。いろいろな場面を切り抜けて生き延びるために自然を知り、風の音や太陽の方角、さまざまな匂いなどから敏感にいろいろなことを察知していました。
もうひとつ大事なのは非常に“コミュニケーション能力”に優れていていたということ。それによってさまざまな情報を得ていました。
今の私たちは機械に向かいがちですが、機械のない時代では自然や人との関わりから情報を得て最先端の活動をしていました。お子さんには自然や友だちとの体験を通して、いろいろなことを感じとる、もともと人間が持っている“人間力”を高めるのに、ぜひ忍者をきっかけにしてもらえたらと思います。
ー 人との関わりやコミュニケーションは、子どもだけではなく大人にとっても大きな悩みごとのひとつです。忍者が実践していたコミュニケーション能力の上げ方や人との円滑な付き合い方はありますか?
当時はお寺や神社に権力を持っていた人がいたので、たくさんの情報が集まっていました。忍者はそこの人と仲良くなるために興味のある話題や好みを探り、お酒を飲んだり贈り物をしたり、敵やよそ者と思われると距離をおかれてしまうので、親近感を得ることで普段話さないことを聞き出していました。
上司と部下の関係についても、部下が間違えたからと頭ごなしに、逃げ場のない怒り方をしてはいけないとか、ときには褒め、ときには厳しく、その塩梅が大事ということも書物に書き残しています。
生き延びて情報を伝えるという忍者の仕事
ー 今も昔も人間関係の悩みは同じなんですね。特に戦国時代の忍者は、今で言う諜報部員、スパイと同じような役割をしていたようですが、忍者ならではの仕事もあったのでしょうか?
一番の仕事は、やはり“情報を得てくる”、ということ。そしてそのためには“戦わない”ということが大事なんですね。生き延びて情報を伝えるという。戦うと死んでしまう可能性も高くなるので。
忍者には戦うイメージがありますが、あれはショーとしての部分が大きくて、忍者のことを詠んだ歌にも「逃げるが勝ち」と書かれています。そして敵の建物などに侵入して得た情報を伝えるためには、壁を乗り越えたり堀を渡る肉体が必要で、そのために日々訓練をしていました。兵法や儒学などの本を読むようにということも書いてあります。知識を得ることも重要です。
全国の子どもたちの力を借りて、忍者を調べよう!
ー 先生は沼津の生まれですが、近くの小田原には風魔小太郎という忍者がいました。三重の伊賀や滋賀の甲賀は有名ですが、自分の住んでいるところも、調べれば忍者がいたということはありますか?
あるかもしれません。名古屋や会津、那須にも忍者はいました。基本的にお城があるところには忍者がいて、主君に命じられて城下の見回りや探索をしていたはずです。でもそういうのは隠れてやることなので、資料としては残っていないということはあると思います。でも着目されていないだけで、資料が残っていることもあるでしょうね。
ー 子どもたちが自分の住んでるところにも忍者がいたらおもしろいなと思ったのですが、お城が近くにあれば、調べてみてもいいかもしれないですね。
地元の方にもあまり知られていなかったのですが、長野県の松本にも忍者がいました。実際に古文書も残っていて、いくつかの流派があって、名前も残っていたんです。私もまだ調べられていないので、松本でお子さんを対象に講演をしたときに、名前と住んでいた場所はわかっているので、子孫の方がいらっしゃるか、資料があるか、夏休みの自由研究で調べてみてねとお願いしました(笑)。
ー 子どもたちの力を借りて、そういう調査が全国でできるとおもしろいですね。
えっ!? 忍者は手裏剣を使っていなかった!?
ー 三重大学でも忍者の講座があってたくさんの学生さんが受講していますね。学生さんたちからの反応・反響はどうですか?
うちの学生は三重県出身が1/3、愛知県出身が1/3、他県からが1/3くらいなんですが、三重県に関する歴史や文化を勉強してもらいたいと思っています。そのなかでも忍者は昔からある存在ですし、三重県は海女さんと忍者が観光の大きな部分を占めているので、三重県のことを知ってもらうためには忍者を知ってもらいたいと思ってやっています。
反応はいろいろありますが、たとえば手裏剣は忍者と関係がなかったんだと説明すると「え〜っ! そうなんだ」となりますね。
ー えっ! そうなんですか?
別に関係ないんですよ。
ー 鉄は貴重だったので、あんなにバンバン使ってはいなかったと聞いたことはあるのですが‥‥。
忍者と手裏剣と密接な関わりが生まれたのは昭和になってからの話で、大正の書物を見ても忍者と手裏剣の話はありませんし、忍術書を見ても手裏剣の絵は一切ないんです。忍者展と合わせて手裏剣大会なども行われますが、史実とはしてはそうなんです(笑)。
ー 手裏剣は縦に持って投げるとかやってますよね。そうすると、手裏剣ってそもそも誰が使っていた武器なんですか?
武士がたしなみのような形でやっていたものです。江戸時代には手裏剣術というものもありました。忍者が何かあって逃げるときに最終的に持っていたものを投げる、そういうことはあったようですが、手裏剣を持っていたわけではないんですね。
でも私は、だからといって各地でやっている手裏剣大会とか、今回の企画展でも手裏剣体験をやりますが、それを否定したり、止めた方がいいということではないんです。それはそれでひとつの忍者の文化として今に伝わっているものですし、手裏剣を忍者の武器にしようと、これを思いついた人は天才だと思いますね。
私たちはまだ、忍者の術中にはまっている
ー 昭和の時代に忍者と手裏剣が結びついたということですが、何かきっかけや物語があったんですか?
「忍びの者」※9 という小説や、テレビ番組の「隠密剣士」※10 、そういうところから結びついていくみたいですね。実際、メリケンサックやかぎ爪みたいに手にはめる武器は忍者が使用したという記録はありませんが、塀を登るときに使う「かぎ縄」や「まきびし」は使っていました。刀と脇差しは持っていましたが、基本的に忍者は戦いの武器は持っていなかったんですね。
でも怪しげな道具があると忍者と結びつけられ、手裏剣も、これを忍者が使っていたらおもしろいなということではじまったと思うんですよ。よくわからない道具は忍者のものだと、それは忍者がそれだけ妄想を広げられるだけの得体の知れない魅力的な存在ということで、いろいろなことを忍者に詰め込むことができる懐の広さなんですね。
ー それはまさしく本当の忍者が望んでいた姿ですよね。得体の知れないというのは。
そうです。正体をわからなくさせて、忍者だとこんなことをやったかもしれないし、100メートルを5秒で走ったかもしれないみたいなことを思わせることが大事なんですね。
ー ということは、我々はまだ忍者の術にかかっているということですね。
そうです、そうです(笑)。
※9「忍びの者」
1960年11月から1962年5月まで『赤旗』の日曜版に連載された村山知義の歴史・時代小説。戦国時代を舞台に、権力者たちに利用される下忍たちの悲哀と反抗を描いた作品。
※10「隠密剣士」
1962年10月から1965年3月までTBS系で放送された連続テレビ時代劇。忍者ブームの火付け役ともなった。1964年に東映京都で劇場用映画として2本映画化された。
史実としての忍者と、
エンターテイメントとしての忍者をつなげた不思議な人たち
ー 忍者についていろいろな研究をされていますが、未だに解明されていない謎はありますか?
私が一番知りたいのは、江戸時代に自分で忍術の修行をして達人になった人、たとえば動物の物まねをしてどこにでも忍び込めるようになった人とか、潜るのが得意でお堀の地形を調べてしまった人とか、いろいろな記録から“忍術使い”と呼ばれるような人がちょこちょこと出てくるんですが、こういう人たちがどのように出てきて、実際にどんな技ができたのか、そういうことを知りたいですね。
ー 今で言う手品師、イリュージョニスト、大道芸人みたいですね。江戸時代、平和になって忍者の需要がなくなったため、そういう人たちが出てきたのでしょうか?
そういう人たちもいましたね。そこから物語が生まれたり、浮世絵で描かれたり。単に忍び込んで情報を得ていたという話を書いてもおもしろくないですし、実際に忍術と称していろいろなことをやりはじめた人たちがいて、その人たちが話題になって、それを話にするとヒットしました。エンターテイメントとしての忍者と、史実としての忍者をつなげた不思議な人たちがいたんです。
各地で講演すると、ご年配の方に「忍術使いを見たことがありますか?」と聞くんですが、村に来ていたよ、という人がいて、たとえば鉄の棒を喉に当てて曲げてしまうとか、火を吹くとか、忍術使いという人がいろいろなことをやったと言うんですね。そういう人は系譜として本当の忍者かどうかはわかりませんが、技を編み出して忍術使いとして興行してまわっていた。そういう人たちが、今の忍者像をつくりあげてきたんですね。
ー 忍者をこれだけ魅力的にした功労者でもありますね。先生の今後の忍者研究の目標は?
忍者としては外国でも引き続き講演をして、日本の文化として広めていきたいなと思っています。三重大学としても、世界の忍者研究の拠点となるべく理科系の先生も巻き込んでいろいろやっていますが、それをもっともっとブラッシュアップしていきたいですね。
ー 理科系の先生方の反応はどうなんですか?
最初は「えっ! 忍者なんてやるの?」という感じだったんですが(笑)、どの年代の先生方も子どもの頃には忍者に関心があったりして、子供心をくすぐられるというか、それを実験して確かめるのは、おもしろがってやってくれていますね。今回の企画展でも子どもさん向けにいろいろやりますが、実際に体験して、楽しんでいただければ嬉しいですね。
ー 最後に今回の企画展の見どころと、子どもたちに感じとってもらいたいことを教えてください。
ひとつは、忍者は日本発祥でずっと愛されてきた存在だということを知ってほしいですね。そして当時の忍者は最先端の知識を集め、勉強し、実践するために地道にコツコツ訓練や勉強をして自分自身を高めていたんです。今の私たちはどうしてもすぐに結果を求めてしまいがちですが、忍者は試行錯誤しながらいろなものをつくりあげてきたんですよね。ですから子どもたちには、自分の頭で考え、試行錯誤することの大切さを学んでほしいですね。失敗してもいいんです。今は失敗に対して厳しいですが、失敗から学ぶことの方が多いし、あとあとまで自分の体験として残りますから。そして、外に出て自然などいろいろなことを感じて、体験し、自分の持っている力を高めてもらえたらと思っています。
“修行”というと滝に打たれる、というイメージがありますが、我慢することも、車で行くところを歩いてみるとか、修行の要素というのは、日常のなかにたくさんのヒントがあります。そういうものを活かして、“人間力”を高めてもらいたいですね。
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インタビュー後記
子どもの頃から興味があるのは怨霊や祟り、忍者研究をする前は大学でそちらの研究をしていたという山田先生は、プロレスや博物館巡りも好きな、天文学者に憧れた少年だったそうです。興味の幅が広く、今回のインタビューでもいろいろなことを、とても楽しそうに話してくれました。
史実としての忍者と、今多くの人が持っているイメージとしての忍者との間をつなげたエンターテイメントとしての忍者の存在は、とても興味深いものでした。その時代を生きるために必死に勉強し、創意工夫し、自らを高めた、バイタリティにあふれる人たちだったのだろうと思います(怪しい人もいたかと思いますが)。
インタビューの後は食品メーカーの方々を対象に講演を行なうとおっしゃっていた山田先生。忍者はいろいろな知識やものごとに精通していたため、食品はもちろん、運動や山や星などの自然と、いろいろなことに結びつけ、関わることができるのも魅力と話してくれました。
私自身、子どもの頃からさまざまな忍者の物語を読み、忍者に憧れて育ちました。「忍者展」では、あの頃のワクワクした気持ちにも出会えそうです。子どもと一緒に見に行けば、親子の話題も増えそうです。忍者はいつの時代も、多くの人の想像を掻き立て、くすぐる存在なんですね。全国の子どもたちと協力して、忍者について調べられたらおもしろいだろうなぁ。
山田雄司(やまだ ゆうじ)
三重大学教授(日本古代・中世信仰史)。静岡県生まれ、京都大学文学部卒、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(学術)。怨霊・怪異など日本人の霊魂観に関する研究のほか、三重大学伊賀連携フィールドで忍者研究に携わる。主要著書に『怨霊とは何か』(中公新書)、『忍者の歴史』(KADOKAWA)、共編著に『忍者文芸研究読本』(笠間書院)、監修に『忍者修行マニュアル』(実業之日本社)など。
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